家の守り神から村の鎮守神へ、そして藩の守護神となり、地域と共に発展してきた紅葉八幡宮の歴史をご紹介いたします。
~ 紅葉八幡宮のはじまり ~
社伝によると、平安時代後期の治暦年間(1065~1068)陸奥国柴田郡より筑前国に来たる柴田氏が、八幡神像に産土神のご分霊を勧請し奉斎したことが創祀とされています。
その子孫である柴田蔵人佐繁信は筑前国橋本村(現西区橋本)に一族を連れ来住し、文明十四年七月(室町時代1482)八幡神像をお祀りするため社殿を創建しました。
~ 三代目藩主黒田光之侯の産土神として西新へ ~
江戸時代初期、神社北側の藩主別荘茶屋へお越しになっていた二代目藩主黒田忠之侯は、美しい村娘と出会います。村娘は後に継室となり、三代目藩主となる光之侯をお産みになりました。
光之侯はご幼少の頃、生母の里 橋本村で養育されたこともあり、当神社を産土神様として篤く崇敬されました。以後黒田家、黒田藩守護神としてご参拝されることが慣例となります。
寛文六年(1666)三代目藩主光之侯は祈願成就の御礼に当宮を百道松原、別名紅葉松原(現西新パレス一帯)に遷座し境内3万2千坪、社領百石を寄進されました。
~ 黒田藩・黒田家の守護神 ~
福岡藩、黒田家守護神として歴代藩主の崇敬も篤く、「黒田家譜」「筑前國続風土記」には、藩に一旦事あれば、まず紅葉八幡宮に御祈願参拝されることが慣例となっていたことや、藩主より奉納された品々のことが記されています。
藩主によって建てられた広壮なる社殿、能舞台、随神門、鐘閣を有した当神社は、東の筥崎、南の太宰府、西の紅葉と並び賞され、藩主の厄年祈祷もこの三社で執り行われておりました。
大祭の日も藩主によって定められ、福岡城は登城御免(藩の休日)とし、藩主は婦人、家臣団共々御参拝され玉串を捧げられました。
大祭の神賑神事として猿楽、流鏑馬、相撲等の奉納があり、藩主はその際に特設の桟敷からその様子をご観覧になられ、この時だけは庶民も特別に一緒に観ることが許されたそうです。
~ 遷座をきっかけに町々が発展 ~
藩主は荘厳な社殿をご建立時、第107代後陽成天皇の皇子である梶井宮慈胤法親王ご真筆の金色に輝く神額を奉納され、大鳥居の前に3戸の家士を置かれ交代で警護させました。
そこから門前町を中心として次第に人家が増え、付近地域(現在の西新、高取、百道、藤崎など)が発展していきます。
~ 明治以降早良総守護として崇敬される ~
明治の世になり田地、山林、社領すべてを返上。明治四十三年に北筑軌道が境内を横切り、境内ではそれまでの静粛さが失われましたので大正二年に町が一望できる現在の地に遷座されました。
早良郡一の大社であった当神社は、郡民から篤い崇敬を受けており、大正十二年に早良郡全首長の推薦を受けて社格が県社に昇格。現在は福岡藩の西、早良の総守護として篤く崇敬されています。
近年の紅葉八幡宮は、その御神徳の多さから紅葉に参れば万事吉と慕われ、新年の参拝者十万人を数え、紅葉山公園と共に、児童等の遠足、スケッチ大会や花見、紅葉狩りなど市民の憩いの場として多くの方々に親しまれています。