紅葉八幡宮の歴史

江戸時代至り、三代藩主黒田光之侯により荘厳な社殿に改修された、藩主の氏神様。福岡藩西の総守護として歴代藩主、庶民に篤く信仰され門前町も発展してきた、紅葉八幡宮の歴史をご紹介いたします。

illust354 紅葉八幡宮(旧県社)の由緒と歴史
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江戸時代の紅葉八幡宮

紅葉八幡宮は文明十四年七月(室町時代1482)筑前の国、橋本村に柴田蔵人佐繁信により建立せられました。蔵人は陸奥の國刈田郡柴田村の者にして、当地に来往し、その産土神をお祀りしました。以来、橋本村一円の氏神様として崇敬されてきました。江戸時代になり黒田藩三代目藩主光之侯がご幼少の頃、生母の里橋本村に養育されました。光之侯は、黒田騒動より八幡宮の氏子がお守りしたこともあり氏神様として崇敬が篤く、藩主となりますようにと祈願され、以後黒田家、黒田藩守護神として御参拝が慣例となっておりました。
寛文六年(1666)藩主光之候は祈願成就の御礼に当神社を西新の地(百道松原・現西新パレス一帯)に遷座し荘厳な社殿を建立、梶井宮親王御宸筆の黄金の額を奉納され、鳥居の前に家士を置かれ交代で警護させました。その後も黒田家守護神として歴代藩主の崇敬も篤く境内3万2千歩(黒田家続譜)、社領百石を寄進されました。当神社は広壮なる社殿、能舞台、随神門、鐘閣を有し、大祭には猿楽流、鏑馬、相撲等が奉納されました。福岡城は当日、登城御免(藩の休日)にて藩主は婦人、家臣団共々御参拝のされ、玉串を捧げらたと伝えらます。
又特設の桟敷から奉納神事をご観覧になられ、この時だけは庶民も特別に一緒に観ることが許されたそうです。江戸時代は東の筥崎、南の太宰府、西の紅葉と賞され藩主よりの奉納の品々は、数えるに隙間なしとその様子を伝えています。また境内地内には元禄時代より黒田藩家士の屋敷が多く建てられ、藩に一旦事あれば、まず紅葉八幡宮に御祈願されることが慣例となっておりました。黒田家譜、筑前続風土記等の記録には、藩内飢饉、流行病の時のご祈祷、又御神刀、鎧、絵馬、三十六歌仙額等の奉納など福岡藩、黒田家の守護神として厚く信仰されていた様子が伝えられています。
社前の商家、人家も門前町として発展し旧西新(西新、高取、百道)の町々となります。明治の世になり田地、山林、社領すべてを返上しますが早良郡全首長の推薦により県社となります。また明治四十三年に北筑軌道が境内を横切り、境内ではそれまでの静粛さが失われましたので大正二年町が一望に見渡せる現在の地に遷宮されました。
現在の紅葉八幡宮現在紅葉八幡宮は、新年の参拝者十万人を数えま、紅葉山公園と共に、学校、幼稚園等の遠足、スケッチ大会や花見、散策など市民の憩いの場として多くの方々に親しまれています。なお先年の早良区民が選ぶ早良の名所では第三番目に選ばれております。
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